江戸の意気・粋
Jan 9, 2017

江戸の女子の成人式には「髪上げ」「島田髷」

成人式、おめでとうございます。

 

振袖姿を拝見するのは、楽しいものです。

一人前の大人として認められる日ですね。

 

かつての男子は元服として15歳ごろ、女子は髪上げとして13歳ごろ行われる儀式でした。

大人になるのを機に、髪型も着るものも変りました。

身も心も引き締まる思いだったのでしょうね。

 

男子は、元服の時に、幼名を改めて大人の名前をつけました。

暮れになると「忠臣蔵」のドラマや映画をテレビで放映しますが、

大石内蔵助の長男大石主税(ちから)が元服するときには、

良金(よしかね)という名前に変わりました。

討ち入りの元禄14年(1701年)12月に元服をして、義盟に加わったのです。

そして間もなくの討ち入りでした。

 

昔の武士の覚悟には言葉も出ません・・。

胸がいっぱいになりますね。

 

刀のさや

 

 

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さて、江戸では、男女ともに3歳までは坊主頭に剃っていて、

3歳の「髪置き」から髪を伸ばし始めたといいます。

男の子も女の子も坊主頭だったなんて・・。

 

 

七五三

 

 

男子は、15歳頃、成人式である「元服」で、仮親が前髪を剃ります。

女子は、12歳から16歳ごろの成人式である「髪上げ」で、

それまでの桃割れなどから島田髷(まげ)に結い上げます。

「十六島田」とも言われるように、

16歳頃から嫁入り前の娘が結うのが「島田髷」でした。

 

江戸時代には、武家、町人、粋筋などの階層や、女子ならば未婚、既婚、後家などみ見た目ではっきりと分かったといいます。

 

娘は結婚が決まると、「お歯黒」を初めてつけます。

人妻になったら、口は真っ黒、髪は「丸髷」にします。

子持ちになると、「眉剃り」をします。

 

「丸髷」「眉なし」「真っ黒な口元」と、娘は見た目も大きく変身していきます。

二十歳前後だというのに、かなりふけた印象になってしましますね。

当の本人もショックを受けたり、周りの人からからかわれたりもしたそうです。

 

お歯黒をつけて娘は野暮になり(柳多留)

 

こんな川柳も生まれました。

 

幕末にやってきた外国人は、日本の素晴らしさを賞賛していましたが、

「お歯黒」だけはどうも好きにはなれなかったようですよ。

 

 

今に生きている私たちは幸せですね。

 

 

 

 

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Jan 1, 2017

江戸の将軍も長屋の熊さん八つぁんも食べたお雑煮とは

皆様、新年明けましておめでとうございます。

 

年末に準備したお餅。

おせち料理とともにお餅をいただくのが日本の習わしです。

お餅を美味しく召し上がっていますか。

お正月のお餅は、

都会では餅屋(米屋)に注文したり、

スーパーでパックになっているものを買ってきたりします。

 

 

昔はペッタン、ペッタンとおじいちゃんが餅をついて、

おばあちゃんがそばで水をひょいと入れていたものです。

あの音は心地よくって、つきたての餅を納豆餅にしたり、

あんこで食べるのが美味しかったです。

ふかしたての餅米も、食べると胃を悪くするよと言われながら、よくつまみ食いしました。

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かるがると上る目出度し餅の杵     高浜虚子

お正月にいただくお餅には、格別の思いがありますね。

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餅つき

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今と違って、江戸の人たちは前の年の12月15日までに餅つきの申込みをしていました。

また、この日までに予約をしないと、お正月の餅は買えなかったということです。

江戸も初めは関西のように丸餅でしたが、

せっかちな江戸っ子は、一つ一つ丸める手間を嫌って、一挙にのして、

包丁で四角く切るようになったようです。

 

 

長屋は一つの共同体です。

大家さんから見れば、店子は子ども同然。親代わりのようなものです。

 

門松だけではなく、お正月用品もおせち料理も共同購入しました。

大家さんの采配で、長屋の住人全員協力したそうです。

 

年末または年始に、大家さんは店子にお年玉を配りました。

それはお金ではなくて、鏡餅でした。

鏡餅が丸い形をしているのは、お年玉の玉に似ているとか、

健康であるために心臓の形に似せたということです。

 

餅つきができるのは江戸市中では大きな商家だけで、

庶民は大家さんにもらった丸餅を台所に飾って正月をお祝いします。

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丸餅
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江戸のおせちもお雑煮も質素でした。

 

おせち料理は日持ちのする煮しめで、酒の肴でした。

お雑煮もシンプルで、

醤油のおすまし汁に、

焼いた四角い餅と小松菜に油揚げ(または鶏肉かかまぼこ)が少しだけでした。

 

どうも徳川家康公が

「貧しかった頃を忘れずに、年の初めにはこれを食べよう」と言ったことに始まって、

代々将軍家ではこのお雑煮を食べていたそうです。

江戸中もそれにならって、同じようにシンプルなお雑煮を食べていました。

 

諸国から大勢の人がやってきて集まっていた江戸で、それぞれの郷土料理としてのお雑煮も食べていたようですが、

一方で、将軍と長屋の住人が同じ質素な小松菜入りのお雑煮を食べて初春を祝していたなんて、

ちょっと微笑ましい光景ですね。

 

ちなみに小松菜は、小松川(現:東京都江戸川区)から、五代将軍綱吉公が命名したということです。

 

皆様も、お雑煮をたんと召し上がれ。

 

 

 

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Dec 31, 2016

江戸っ子も大好きだった七福神巡り

皆様、おはようございます。

 

いよいよ本年の大晦日を迎えましたね。

 

一年間本当にお疲れ様でした。

 

海の向こうからやってきた幸せを呼ぶ神様たち、「七福神」

中国やインドからやってきた神様たちですが、唯一日本の神様は恵比寿天(えびすてん)です。

福徳や商売繁盛を授ける神様ですね。

 

七福神2

 

 

たくさんいる福の神からラッキーセブンの七神になったのは室町時代です。

中国の水墨画に描かれた、竹林に遊び、清談にふける「竹林の七賢」の影響を受けたといわれています。

 

七福神へのお詣りは江戸中期以降に流行しました。

文人、俳人の初春の風雅な遊びとして始まったそうです。

 

「恵比寿(えびす)・大黒天(だいこくてん)・弁財天(べんざいてん)・毘沙門天(びしゃもんてん)・布袋(ほてい)・福禄寿(ふくろくじゅ)・寿老人(じゅろうじん)」を七福神とし、金銀財宝を積んだ宝船に乗って訪れるという絵柄が江戸で大流行となりました。

 

最も古い七福神は、不忍の弁財天、谷中感応寺の毘沙門天、谷中長安寺の寿老人、日暮里青雲寺の恵比寿・大黒天・布袋、田端西行庵の福禄寿です。

 

江戸っ子たちは、おせち料理の腹ごなしをかねて、有名無名にかかわらず、市中の七福神を捜しながら散策を楽しんだのです。

 

笹1

 

 

江戸で人気の神様は、

 

上方資本の多い江戸の店では、商売繁盛の恵比寿・大黒天

 

江戸で生まれ育った職人衆はおおらかな布袋さん

 

布袋さんは、いつもにこにこ、美味しそうにお酒を飲んで、子どもたちには好かれている。

しかも弥勒菩薩の化身ともいわれ、最後の最後に民衆を救いにくるという神様です。

そこが江戸っ子好みだったのですね。

 

武士が好んだのは、煩悩や邪気を払い去り、福徳を授ける毘沙門天でした。

 

どの神様があなたはお好きですか?

 

皆様も年明けに七福神巡りはいかがでしょうか。

 

本年もこの 和のたしな美ぶろぐ をお読みくださいまして、

ありがとうございました。

 

来年はもっともっと素晴らしい年になりますように。

 

よいお年をお迎えくださいませ。

 

 

 

 

七福神3

 

 

 

 

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Dec 23, 2016

江戸のクリスマスは

皆様、おはようございます。

もうすぐクリスマスですね。

あちらこちらの素敵なイルミネーションにうっとりします。

何となくウキウキしますね。

クリスマスは、イエス・キリストの誕生をお祝いするお祭りですが、

12月25日に行うことになったのは、ずいぶん後のことで、

ローマ教会では354年から行われたということです。

 

ローマの農民の間では「冬至のお祭り」(12月21日から31日まで)が

11日間行われていたのですが、

そのうち25日がクリスマスに転じたのです。

 

「冬至」は、太陽が蘇る日として、太陽神として太陽を崇め、農業にとって大切な日でした。

 

日本でも、冬至は厄払い、無病息災を祈願する日として、

体の抵抗力をつけるカボチャを食べたり、柚子湯に入って身体を暖めたりしますね。

 

キリスト教徒は、この12月25日の異教徒の「冬至のお祭り」を「クリスマス」という形で

彼らに親しみを持たせて広めるために、取り入れて浸透させていったのです。

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さて、日本ではどうだったのでしょうか。

 

江戸時代はキリスト教禁止例が出ていましたから、

出島のオランダ人は密かに冬至のお祭りとしてクリスマスを行ったそうです。

 

江戸後期、日本の知識人たちも「オランダ正月」と称して年に一度のパーティーを楽しんだそうです。

新しいことを異教の地で広めるには工夫と親しみやすさ、

そして根気やタイミングなど、いろんな要素が必要ですね。

 

楽しいクリスマスをお過ごしください。

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Nov 19, 2016

男の中の男〜八丁堀のだんな

おはようございます。

今はテレビや映画で時代劇を余り見なくなりましたよね。

 

捕物帳で、「与力(よりき)」「同心」という言葉を聞いたことがあると思います。

江戸の町奉行の下で働いていた人たちです。

町奉行といえば、大岡越前や遠山の金さんでおなじみですね。

 

「与力・同心」は、「上司を補佐する」という意味の役職で、

町奉行だけではなく、ほかの部署にもたくさんいたのだそうです。

それが捕物帳で有名になって、町奉行の配下の役人という呼び名になったようです。

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よく「八丁堀のだんな」という呼び名が時代劇で出てきます。

これは、江戸八丁堀に組屋敷があったからなのです。

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明治神宮行灯
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町与力は、江戸の人たちが選んだ「男の中の男」に入っていました。

「男の中の男」とは、与力、力士、火消しの頭の三職です。

 

町与力はの仕事は裁判、同心は捜査をそれぞれ担当し、江戸の治安を司っていました。

 

町与力の定員は50騎、25騎ずつ南北の奉行所に配属され、

それに対して下総(しもふさ)にまとめて一万石の知行所が与えられました。

1騎200石でした。

 

同心の定員は南北50人ずつで合計100人。

幕末の動乱期には140人ずつ合計280人でした。

俸給は14石ほどで、ほかに手当やほうびが与えられたということです。

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太鼓
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100万都市の大江戸で、これだけの少人数の役人たちで江戸を守り抜くことができたのは、

江戸の町の支配がしっかりしていたということも挙げられますが、

同心が使った手先・小者、岡っ引き(御用聞き・目明かし)、下っ引きの働きが

大きかったからだと言われています。

ちなみに銭形平次岡っ引きです。

 

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末端の銭形平次のような人たちの働きが治安の維持に一役かっていたわけです。

 

与力と同心の見た目の違いは、

与力は十手と刀を並べて差していましたが、

同心は必ず後ろに差したということです。

同心は、テレビでは目立つように前に差しています。

 

 

今日もお読みくださいまして、ありがとうございました。

楽しい一日をお過ごしくださいませ。

 

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Nov 17, 2016

大江戸 八百八町

皆様、おはようございます。

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  男だったら一つにかける

  かけてもつれた 謎をとく

  誰が呼んだか 誰が呼んだか

  銭形平次

  花のお江戸は 八百八町

  今日も決め手の 今日も決め手の

  銭が飛ぶ ♪

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ご存知の方も多いと思います。

舟木一夫が歌った「銭形平次」のテーマ曲です。

 

「花のお江戸は 八百八町」とありますね。

江戸幕府が始まった当初町は三百余町だったものが、

江戸中期には千町を超えていたそうです。
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「隣の町よりも良い町にしよう」という気概をみんなが持っていました。

お祭りの時、神輿を担いだり、山車(だし)を曳いて練り歩く時には、

それぞれの町が張り合っていたそうです。

 

ただ豪華絢爛ばかりを競うのではなくて、

その心根には、

うちの町ではいつも弱い者を助けてよい町づくりをしているという気概をそれぞれに持って、

張り合っていたようです。

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ひもじい思いをしてやせた子がいたり、体が不自由で困っている老人がいたとすると、

「おまえんとこじゃ、弱いもんをちゃんと面倒見てやってねえんじゃないか」と、

軽蔑されました。

 

それぞれ個人的には引っ越しも多い、人の出入りも多い長屋では、それぞれが深く相手の身の上に立ち入らない、そんなルールをつくっていたようですが、

お祭りとなると、話は別なんですね。

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江戸には、「福祉」や「ボランティア」という言葉もなかったそうです。

必要なかったのでしょう。

お金持ちの商人は町のためにお金を出す、力のある人は力を貸す、

病気で困っている人には手助けをするというのが普通にできていたのです。

 

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山車

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今の時代は、どうしても心配事、トラブルなどを自分で抱え込んでしまう、

そうせざるをえない状況がいっぱいありますよね。

住まいも個を確立したものに変わってしまい、隣や地域の住人とのコミュニケーションも

意識がすっかり変わってしまいましたね。

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ほんわかした江戸の町、大江戸八百八町。

「隣は何をする人ぞ」の意味合いや意識が今とはまったく異なっていたのですね。

あこがれちゃいますね。

 

本日もお読みくださってありがとうございました。

 

幸多きに一日になりますように。
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小舟町の提灯

 

 

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Oct 30, 2016

三方よし〜感謝の心

江戸時代初期、江戸の経済を支えていたのは近江と伊勢出身の商人たちでした。

近江商人の活動理念を象徴的に表した、

「三方(さんぽう)よし」という言葉がありますね。

「売り手よし、買い手よし、世間よし 」

 

これは、滋賀大学の小倉栄一郎教授の造語で、『近江商人の経営』の中で書いた言葉です。

原典は、現滋賀県五個荘町の麻布商、中村治兵衛が70歳の時に養嗣子の宗次郎に

あてた家訓『宗次郎幼主書置』にあります。

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商人として栄え、長続きしていくためには、

まずお客様に喜んでいただく品物を提供すること、

そしていたずらに大儲けをしようなどと考えてはいけない、

お天道さまの恵みのおかげという感謝の気持ちとお客様に喜んでいただこうという

気持ちが大切だ、

そうすれば、世間の皆様も応援してくださるに違いない。
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みな仏の化身、みな生かされているという考えのもとで、

互いの商売繁盛を願い、支え合い、分かち合う生き方をした江戸商人の考え方と

相通ずるものがありますね。

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ともすれば、マネーゲームに走るようなビジネスもありの現代です。

お天道さまに見守られ感謝しながら、人と人との触れ合い、温もりを大切にして、

「おかげさま」のこころで商いをしていくという価値観には、ほっとするものがありますね。
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今、中村治兵衛が子どもに書き残した家訓は企業経営の理念だけではなく、

何ごとにも通じるものがありますね。

「おかげさま」

その原点を再考する必要があるように思います。

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Oct 20, 2016

沽券にかかわるとは

おはようございます。

「こけんにかかわる」という言葉、聞いたことがありますか。

「こけんにかかわる」というのは、

「品位、人格、体面にかかわる」という意味で使われていますね。

 

もともと「こけん」というのは、「沽券」とも書き、意味は売券のことでした。

 

江戸時代、地所や屋敷がこの沽券によって売買されていました。

今でいう「権利書」のことです。

「権利書」といえば、権威あるものとされていますね。

 

江戸庶民は約7割が借地で、その大半の30万人が長屋暮らしだったそうですね。

とすると、残りの3割の庶民は私有地で暮らしていたことになります。

この江戸庶民の私有地は町地といって、それは12もの種類があったそうです。

この町地は、古くから沽券によって売買されていたので、「沽券地」といったのです。

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そもそも、江戸時代には、現在の「地目」に類似した「町地」の制度があって、

江戸末期の土地の所有関係は、

町地20パーセント、官地寺社地40パーセント、武家地40パーセントの割合

だったそうです。

圧倒的に寺社地と武家地の占める割合が高かったのです。

 

ですから、江戸の庶民の大半は、熊さん、八つぁんのような狭い長屋暮らしがほとんどでした。

 

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沽券に添付されていた「券帖」は、不動産を得るときに作成され、

町の名手五人の奥印を受け、売り渡しの証拠にしていました。

また、親子、親族に譲渡する際は、沽券に継紙(つぎがみ)し、

押印を加えることになっていました。

現在の登記書の役割を名主がやっていたわけです。

この厳格さは、今でも土地や建物の売買にも引き継がれているのですね。

昨今の登記簿は電子化までされています。

 

「沽券にかかわる」という精神は、

現在の民法でいう「信義誠実の原則」の精神の江戸版ともいえます。

 

江戸庶民の心根、心映えを見るような気がします。

 

 

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Sep 21, 2016

老後は知恵の伝承者

江戸時代、お年寄りは隠居して、若い人を育て引き立てる役目でもあったそうです。

人生50年の時代。

40歳を過ぎると、そろそろ世代交代の準備の入るのが江戸の慣わしだったそうです。

これを「老入り」と呼びました。

隠居後は、年長者ならではの見識を期待されました。

例えば、

ユーモア精神をもって、若者をどれだけ笑わせたか、

若者をどれだけ引き立てたか、

若者にどれだけ知恵を伝承したか。

一人でも多くの若者を育てることが評価基準になっていたのですね。

隠居後、自宅のまたは地域の相談役に徹したそうです。

黒澤明監督の『七人の侍』でのワンシーン。

野武士から村人や農作物を守るにはどうしたらよいか、

村人総勢で話し合っても良いアイディアが出なかったので、

水車小屋の古老に尋ねたところ、

「侍、雇うだ。

腹の減った侍探すだよ。」と明解なこたえが返ってきたのです。

さすが、年の功ですね。

ひな菊〜鈴木茂光さんから

明治初期に「老後」という言葉が生まれ、

現代は、社会構造の変化の中で、年長者に対する尊敬の念が薄れてしまいました。

「老入り」という言葉も考えも、消えてしまったのです。

言葉の持つニュアンスは、イメージを大きく変えてしまいますね。

107歳まで現役だった彫刻家平櫛田中(ひらくしでんちゅう)氏の明言。

「七十、八十は鼻たれ小僧。

人間盛りは百から百から」

少子高齢化で核家族化した社会には、この「老後」ではなく「老入り」による

長老の知恵が是非とも必要だと思いませんか。

シニア世代との断絶ではなくて、むしろその知恵を活かして、

若い世代と持ちつ持たれつ、いたわり合い、育て合うような社会を

また取り戻していけたら、素敵ですね。

竹垣・秋

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Sep 15, 2016

亀の甲より年の功

今日は、9月第三月曜日「敬老の日」。

9月15日は「老人の日」として、その後の一週間を「老人週間」として、地域の老人会などでは様々な行事が行われています。

今、60歳でリタイヤと言ってもまだまだお若いですよね。

日本は今後ますます高齢化社会になるわけですから、いかに社会に高齢者の知見を生かすか、その社会づくりにも期待が寄せられます。

江戸時代には、

困ったことがあったら年長者の意見を聞いて解決して、

「亀の甲より年の功」だなあと言って、みんなが年長者を尊敬し、

大事にしました。

年金制度も介護制度もなかったのですが、

若い時に苦労をして、年を取ってから楽しむという余生の生き方は、

みなが抱いていたものでした。

そういうことができるように周囲が配慮するのも江戸庶民の生き方でした。

研ぎ澄まされた五感を持つ老人の危機意識とその経験から得た知識は、

災害に備える危機管理にも繋がりました。

「シワくちゃの年寄りのシワ一本一本に経験と知恵があるんじゃ。」

隠居後、このように年長者の見識も期待されたことから、年長者も努力したのですよ。

現代も、シニア世代にはますますアンチエイジングに励んでいただき、その能力を

世の中のために活用していただきたいと願っています。

紅葉

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